「あんたもなのか」
皆が寝静まった夜更け。熾した火と月明かりで、手元も、向かいで座る男の表情も良く見える。
曇り無き夜闇には無数の星々の明かりが──何かをしでかそうものならば、何処からでも見えているぞと言わんばかりに──あらゆる角度から地上を照らしている。テュオハリムは己を隠す術が無い事を知り、大好きな酒の席だというのに少々居心地が悪くなった。
「……そうさな」
無駄な抵抗と知りつつも、俯き目を逸らし、出来るだけ表情が見えぬよう努める。平時ならさらりと躱せたかもしれないが、酒が仇となり感情の制御が上手くいかない。
「あんたに愛された相手は、きっと幸せだろうな」
酒を啜りながら杯に揺れる月を眺め、笑みを浮かべる男が発する言葉は、とても柔らかい。普段の精強な彼からは想像がつかないくらいの声音に、心臓が高鳴ると同時に締め付けられる。
「その言葉、そのまま君に返そう」
すっかり進まなくなってしまった酒に映る己の顔が、余りにも酷くて苦笑する。落ち着かず、煽るように残りの酒を流し込んだ。
────酒の肴に、意中の相手はいるのかと問われた。さてな、と誤魔化してみたものの、それ故に居るものとして受け取られた。その相手がまさか、自分だなどとは、君は微塵も考えていやしないのだろう。当然だが。
「俺は望むままに与えてやりたいタイプみたいだ」と言い、あんたはどうだと訊ねられた。いくら酒を摂取していようと、本音を零す事など許されず。「奇遇だな。私も求められたい方でな」と答えを歪めて、今に至る。
本当は、求めたいのだ。それも、目の前にいる男を。今も手を伸ばせば届きそうな気さえする────アルフェンという男を。
「……酔いが回ったかな」
ふ、と自嘲気味に笑う。「そろそろお開きにするか」と優しく微笑まれ熱くなる顔を、酒のせいと言い聞かせて。しかし、どうせ全て酒のせいにするのならばと。
「アルフェン」
手を伸ばす。届かない。
(わかっている、それでもいいのだ。これは酔った男のただの戯れなのだから)
俯き、伸ばした手を戻そうと動かした。途端、無骨で熱い、それでいて壊れ物にでも触れるかのような優しい掌に、テュオハリムの手が握られる。
「……え?」
夢のような出来事に、夢から醒めた様に驚いた。
「え? あ、すまない!」
目が合ったと同時に弾かれたように手を離される。ほんの一時、たった数秒触れただけというのに、まだ握られているかのように熱い手を、引き戻し握り締めた。鼓動が逸る。
「なんだか、あんたが一瞬消えてしまいそうな気がして」
思わず……と続け、アルフェンはバツが悪そうに、殆ど空になった杯に残る僅かな雫を飲み干した。そんなアルフェンを余所に、テュオハリムは呟いた。
「……叶わぬ恋に、泡となって消える話があるのだそうだ」
「……泡?」
(私も、泡となって消えるのだろうか。虚水などではない、儚くも美しい泡となって。目の前の男と結ばれる事など、到底ありはしないのだから)
焚火の音が心地良く鼓膜を揺らす中、テュオハリムは泡沫の夢を見る。
「それってどういう」
「さて、これにて終宴だ」
不思議そうな顔をしたアルフェンの言葉を遮り、立ち上がり背を向ける。
「おい、テュオハリム」
「私は少し風に当たってから寝るとしよう。アルフェン、良い夢を」
「あ、ああ…………わかったよ。おやすみ、テュオハリム」
アルフェンの優しい声に見送られ、歩を進める。頬を撫でる風が、火照る体に心地良い。
進む度に気が緩んでいくようで、一歩また一歩と歩く毎に、感情が露わになっていく。
「っ、ふふ、ふふっ」
視界を埋め尽くす程の満天の星に照らされながら、テュオハリムは遂に声に出して笑い出した。
「泡沫の 消えて儚き 我が身かな……ふっ」
泡のように消えていくのは、一体どんな感覚なのだろうか。痛みを伴うのか。それとも、愛おしい相手の顔を、熱を思い出しながら、晴れやかに消えて逝けるのだろうか。
未だアルフェンの感覚を覚えている手。消えてしまいそうな気がして、とそれを拒むように握られた手。僅かに触れただけで、こんなにも嬉しいのだ。
「君に愛されたとしたら、それこそどうなってしまうのだろうな」
もしも泡と消えたなら、きっと誰よりも泣いて、怒ってくれるであろう男の声を反芻しながら。テュオハリムは込み上げる笑いが治まるまで、月夜の下、酒の余韻に浸るのだった────。
2022.1.24