誰の帰りを猫は待つ

 日が翳る。

 下町の喧騒が、徐々に落ち着きを見せる頃。愛しき人の暮らす部屋へ続く階段を、スキップさながらの軽快な足取りで登り、扉に手を掛ける。

 合鍵などはない。不用心にも鍵は掛かっておらず、ドアノブを捻ればカチャリと音がして、その内側を簡単に覗かせる。

「おっ邪魔しまーすっと」

 視界の大半を占めるベッド以外は、これといって何もない部屋。

 整理整頓が行き届いているわけではない、断捨離を極めたかのような、悪く言えば殺風景な部屋。

 だがそれでいて温かみを感じるその部屋は、扉を開けた瞬間からわかる、ある香りに満ちていた。


 男らしく、かつどことなく甘さのある青年の纏う香り。


 室内に満ちるそれが鼻を擽り、レイヴンは誰も見ていないのをいい事に、部屋に踏み入れるや否や、だらしなく口許を緩めた。

 靴を脱ぎ揃え、青年の匂いが色濃く香るベッドへと向かい、一拍置いてから、バフりとベッドへと飛び込んだ。

「すぅ〜〜……はぁ〜〜……」

 投げ出された毛布を眼前に抱え込み、深呼吸を一つ。吸い上げたユーリのフェロモンのような甘い香りが、頭からつま先までを巡り、吐き出される。それだけで、脳と、脳から繋がる体の中心部がジンジンと疼くのがわかる。

「んふっ……ユーリ……」

 腰が勝手に動き、スリスリと下半身を毛布へと擦り付ける。ユーリの匂いは、性へのスイッチを強制的にオンにする効果があるようで、あっという間に蕩けたおっさんの完成である。

「ふぁ……準備、しないとね」

 心地良い香りに包まれてぬくぬくとしていたい気持ちを堪え、レイヴンは起き上がった。


 そう。今日ここに来た理由。

 何も続くユーリ不足で残り香をこっそりと嗅ぎに来たわけではないのだ。

 先日ダングレストで顔を合わせたジュディスちゃんに聞いたところによると、大したことはないにせよ、凜々の明星に立て続けに依頼が舞い込んできたそうで。

 俺一人で十分だと、移動の多い依頼を引き受けた青年は、西へ東へと走り回り、その最後の仕事が、つまり今日だと言うではないか。

 お疲れの青年に甘味でも振舞うかと考えていたら、ジュディスちゃんが満面の笑みで何かを手渡してきた。

『おじさまにしか頼めないことよ』

 何かと思い、渡された紙袋の口を開くと、そこには……。

『大丈夫よおじさま。喜んでもらえるわきっと』


 ベッド横に置いた荷物の中から、彼女から受け取った紙袋を取り出す。再び口を開き、中に手を入れた。がさりという音と共に袋から取り出されたそれは、黒く、ふさふさとした、猫の耳────のカチューシャだった。


 目にした時は、何かの間違いかと思った。だけど彼女の表情は有無を言わさない物があり────彼女の事だ、面白がってはいるのは間違いないだろうが────冗談ではなく本気でそれをレイヴンが使う事を望んでいるようだった。

 励まされたはいいものの、いやいや、こんなものであの青年が……と思い、いつか猫耳をつけたリタっちにほんのり頬を染めていたのを思い出した。

 成程、と納得した直後、あれは元より猫のような小柄な少女だからいいのであって、枯れたおっさんが身に着けて同じ反応をするものかと、やはりこんなもので……と否定した。

 暫くの間、そうやって悶々と脳内会議を繰り返し、最終的に、『大丈夫よ』という彼女の力強い言葉を信じて、レイヴンは猫耳を着けて青年を出迎えてやることを決意する。

 やるならば徹底的に、と思い、その日の晩にそういった類のマニアックな商品を扱っている店の扉を叩き、見合う物まで手に入れた。


 レイヴンはもう一つの紙袋を開封する。

 さすがに服の類はサイズがなく、購入したのはこれ一つ。

 現れたのは、貰った猫耳と同じ色をした、すらりと伸びた、猫の尻尾……のような物。

 なぜ言い切らないかと言うと、その尻尾の根元部分には異質な、五つに連なる淡いピンク色をした玉が付いているからだ。

 そう、陰具だ。

 つまりこれは、玉の部分を尻に入れることで、擬似的に猫の尻尾を生やすモノなのだ。

 ゴクリと唾を飲む。

 買った時は思い立った勢いがあったからいいものの────支払う時に店の親父さんに『ほぅ……これをねぇ』と言われ、多分誰かに使う側として見られたのだろうが、自分用に購入した後ろめたさに早々に立ち去りたくなるくらいには恥ずかしかったのだが────いざ使う気で手にしてみると、顔から火が出そうな程の羞恥心に駆られた。

 それを一旦ベッドの端に置き、腹を一周するベルトを外すと、下肢に纏うズボンを下ろした。続いて秘部を覆い隠す下着に手を掛け、ズボン同様に足から抜き去る。

 露わになった様を誰も見ていないとわかっていながらも、膝を合わせて足を閉じ、もぞもぞと性器を隠した。

 脱いだ服を軽く畳んで、荷袋の中へと収める。代わりにそこから、昨日一緒に購入したローションのボトルを取り出した。


 人が寝起きしているベッドの上で、忍び込んだおっさんが下半身を露わにしているなんて、普通だったら通報ものだ。

 そんないけないことをしているような状況が、むしろ気分を高揚させてしまうのだから、救いようがないとレイヴンは苦笑した。

 手にしたボトルの蓋を開け傾けると、透明な粘度のある液体が、手の平へと流れ落ちてくる。体温よりも冷たいそれを、握り締めて包み込み、温めていく。

 くちゅ、と音を立て、手の中で体温を吸収した液体を指に絡め、下肢の間へと運んだ。固く閉じられた蕾を人肌に温まったローションがなぞる。

 そしてひくりと反応し緩んだそこに、濡れた中指をそろりと挿し込んだ。

「……っふ」

 そのまま指を押し進め、半分程埋もれたところで、薬指を追加する。広げるように指を開きながら中へと進めば、もどかしい刺激に自然と腰が揺れた。

「……ん、ふ……」

 ローションの水音が、自分以外に人のいない静かな空間に、やたらと大きく響く。いやらしい音に合わせて、鼻から甘い声が抜けていく。

(……ユーリの指なら、もっと気持ち良くなれるのに)

 足りない刺激に、無意識にユーリの指の感覚と比較してしまう。

 寂しさを埋める為の行為ではないはずが、一度その感覚を思い出してしまえば、ずくずくと体が疼き出すのを止められない。 

「は、ぁ……っ」

 何度か上下させた後、指を抜く。ちゅぽっと切ない音を立て、空っぽになったそこが、はくはくと空気を取り込んだ。

 いよいよそこに、例の代物の出番がやって来たかと、チラりとそちらに視線をやった。それはまるで生きているかのように、ベッドの端で寂しそうに丸くなっている。

 レイヴンは再びローションのボトルを開け、中身を手の平に出すと、逆の手で尻尾を掴み、引き寄せた。整った毛並みとは裏腹に、剥き出しの肉のようなピンク色の球体に、濡れた手を這わす。


 再び、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 てらてらと艶めかしく光る尻尾の根元を、先程まで指が入っていた箇所へと運ぶ。一番先の玉の表面が、蕾に触れた。濡れた手で玉を掴み、押し込むように中へ────

「ふ、ぅ……っ」

 ぬぽ、と蕾が開き、玉が一つ取り込まれた。玉の結合部の窪みで、また蕾が閉じる。ゆっくり呼吸をしながら、二つ目の玉も、同じように押し込んでいく。同様に、三つ目も。


 こんなマニアックなモノを手にしておいて何だが、この手の陰具を使うのは、実を言うとレイヴンにとっては初めての経験なのだ。

 彼が恋しくなって、自分で後ろを慰めた事はある。だがそれも使ったのは指だけ。内側には己の指以外は、ユーリしか招いたことはなく、ユーリもまた、己以外の物をセックスの時に用いた事がないのだ。

 それを、こんな形で経験してしまった事を、ユーリは怒らないだろうか? とレイヴンは急に不安に駆られた。

 だがここまで来て止まれるはずもなく。小刻みに震える手で、四つ目の玉を押し込んだ。

「ンンッッ」

 尻の中にゴツゴツとした違和感を感じる。

 あと少し。あと一つ。

 力む指先が、最後の玉を押す。蕾が口を開く。みちぃ、と広がって、玉の直径部分に差し掛かる。

 あと、一息。

「ふー、っふー……」

 呼吸が荒くなる。最後の大仕事をこなすように、深く大きく息を吸い、思い切って、指を、押した。

「〜〜っぁあっっ」

 ゴリ、っとイイところを圧迫されるのを感じて、嬌声が上がる。

「ひ、……っはぁ、っはぁ」

 今まで触れずに半勃ちだった自身が、すっかり元気になっていて、これを動かしたらイけるのだろうかなどと本来の目的を忘れそうになり、慌てて思考を振り払った。

 下肢の間に目をやると、玉の部分は見事に飲み込まれ、自分の尻からはしっかりと黒猫の尻尾が生えている。何とも倒錯的だ。

 そこに更に、今回の原点ともいえる猫耳のカチューシャを頭にセットして、大の雄猫の完成である。

 鏡がないので、窓ガラスに映る姿でも確認しようかと思い、何だか怖くなってやめた。

 荷袋から出した手拭いで、濡れた手を拭き取り、ローションのボトルを包んで仕舞う。もう今日はこれ以上出番のない荷袋を、ベッドの下へと押し込んだ。

 ユーリの香りが強い毛布を手繰り寄せ、体に巻き付ける。

「…………にゃあ」

 練習とばかりに鳴いてみたが、たった三文字のその音が存外恥ずかしく、毛布に顔を埋める。

 この姿を見て、疲れたユーリは、果たして癒されるのだろうか。 考えれば考える程、何かを間違えた気がして、どんどん不安になっていく。


「目一杯ごほーしすっからさ……」

 言い聞かせるように、かつ願うように、レイヴンはか細い声でぼそりと呟いた。

「はやく……帰ってきてよ……」

 俺が、恥ずかしさで猫でいられなくなる前に。

 俺が、ちゃんと猫でいられるうちに。


 その頃ユーリは、やっとの思いで帰路につく。

 誰も居ない筈の部屋で、猫が待っているとも知らずに。


 大禍時。

 猫になったレイヴンは、ベッドに丸くなり、ユーリの帰りを静かに待つ。






2022.2.24

誰がために猫は鳴く、前日譚