表と裏と

 命令だからと行動を共にしているうちに、気付けばユーリのことを意識する自分がいて。

 一度死んでしまった俺は、何にも本気で興味を示せなくて。本気で誰かを好きになんて、なれやしないと思っていたのに。

「ユーリ……」

 名前を口にしただけで胸の魔導器が疼く。座り込んだベッドが、前屈みになったことで軋んだ音を響かせた。

「青年、怒ってるかしら……」

 吐き出した言葉が、浮かない気分を更に沈ませた。

 ……自分が何をしたか。忘れられる程、長くは経っていない。裏切って、嬢ちゃんをアレクセイの元へ連れて行って。

「怒らないわけ、ないわよねぇ」

 暗がりの中、自分の動きに合わせて動く何かが視界に映る。ベッドサイドに大きな鏡があったと気付く。覗き込めば、映る自分の顔は酷く暗鬱だった。

「酷い顔……」

 苦笑を浮かべてベッドから立ち上がり、自分を写す鏡の目の前まで足を進めた。真正面に自分と全く同じ姿が見える。ぼさぼさの髪にだらしない格好。

「この俺がシュヴァーン……ね」

 ひたり、と冷たい鏡に手を触れる。鏡の中のもう一人の自分も、同じように手を伸ばし、手と手が触れ合う。温もりは、感じない。

 まるで鏡の向こうに冷めたもう一人の自分が存在しているかのような、不思議な感覚にゾッとする。

「俺は……。……ユーリ」

 シュヴァーンの自分とレイヴンの自分。どちらも自分のはずなのに。全てをシュヴァーンのせいにして、逃げてしまいたくなる。

「嫌いに、なんないでよ……」

 泣きそうな感情を押し殺すように手に力を込めると、割れそうな嫌な音が鳴る。ハッとして手の力を抜くと、触れていたせいで温かくなった鏡に気付く。

 その生温かさは、本当に直接手を触れあわせているような……


『自分から裏切ったくせに調子がいいんだな』


「?!」

 その瞬間、良く知る声がした……気がした。

 ビクリと肩を跳ねさせて鏡を見ると、先刻まで映っていたはずの自分は形を潜め、代わりに映っていたのは……。

「シュ、ヴァーン……」

『裏切っておきながら、自分は被害者面か』

 鏡の向こうの自分……いやシュヴァーンは、死んだような目で俺を見て、冷たい言葉を向ける。これは幻聴。そう思いたいのに、思えない。

 魔導器が、壊れそうに痛む。

『ユーリはお前を許さない』

「……っ」

『いや、そもそも気付いて疑っていたかもしれないな』

「へ……」

『お前がこうやって裏切ることを、な』

 ズクンズクンと。シュヴァーンの声が、言葉が、その全てが、ナイフのように胸に突き刺さる。つんざかれるような痛みに足が折れる。

 しかし張り付いたようにシュヴァーンと繋がった手は離れず。手を伸ばしたまま、中途半端に膝立ちになる。

「ユーリは……信じてくれてる」

 言い聞かせるように呟くが、正直自信がない。自分の気持ちなど告げたことがなければ、ユーリにそんな気持ちをぶつけられたこともない。

 好きだと、大事だと思っているのは……

『わかっているではないか。それは、お前だけだ』

「もう少し、遠慮したら……? 俺様、マジで傷付くって……」

 ドンが死んでも泣けなかった。なのに今、ジワジワと溢れる雫で視界が歪んでいく。

『お前はアレクセイの道具なのを忘れたか?』

「っ!」

『道具の分際で誰かを好きになるなど無駄なことだ』

 向けられた嘲笑に苛立ちと、寒気を感じる。自分が生きる屍であると錯覚する。

『ツラいなら逃げればいい……慰めてもらえば良いだろう?』

「何、言って……」

『大好きなユーリにな?』

 そんなのは無理だとわかっているのに、期待感に反射的に胸が高鳴る。ユーリに、されたい、と。

 想像でしかない、自分が作り出したユーリだとわかっていても。それでも、抱かれたいと。

 楽しそうに、しかしつまらなそうに笑う声に。操られるように無意識に、空いた左手が自らの雄に触れていて。

「ん、は……」

 ズボン越しに撫でるように触れるだけで、それは硬度を持ち。

『愚かだな』

「ふ、ぁ、……っんん」

 嘲りにすら疼く体。堪らなくなって服を寛げ、直接扱く。

「ぁあっ、ゃ、ゆー……り」

 ユーリの名前を口に出せば、益々自身は熱く昂ぶり。

「ユーリ、ゆー、り……っ! す、き……」

 目の前に映っているのは自分でなくシュヴァーンで。なのにそのシュヴァーンさえも霞むように視界には、いないはずのユーリが映る。

「ぁ…っは、ぁあ」

 己が産んだ浅ましい幻なのに、ユーリに見られている感覚に震える。扱く速度は速くなり、熱がそこに集まっていく。

「ひぁ……んっ……!」

 ぶるっと背筋に震えがくる。同時に自身から白濁が放たれ、磨かれた鏡を汚した。

「んはぁ……」

 重力のままにドロリと垂れる液体が、鏡の中のユーリを汚していく。

 自らの飛沫で汚したことへの厭らしさからか。イった直後で脱力する筈なのに、昂ぶりが治まらない。自身の熱も、まだ冷めない。

『これくらいでは足りないか?』

「ぅ……っ」

 再び現れたシュヴァーンに問われ、自分がまだ満たされないことに気付く。

「許し、て……」

 強い刺激が欲しくて先端の窪みに指を添え、食い込ませる。

「んぅぅ……っ!」

 裏切ったユーリへの罪悪感。なのにそのユーリを浮かべて自慰に耽る自分。もう、ユーリに合わせる顔などない。

 涙が溢れて。流れて。止まらない。同時に先汁も溢れ、垂れ落ちる。

『苦しいか』

「そうよ……苦しいの、よ……」

 泣きながらも、相変わらず操られたように手の動きは止まらず。

 グリグリと己を攻め立てる。

「も、こんな……気持ち……」

『忘れてしまえばいいさ』

「はぁぁあっ」

 シュヴァーンの低い呟きを耳にした途端に、タガがが外れたように。ずっと合わせられていた右手が鏡から離れ、両手で思い切り自身を扱いた。

「ぁあっ、ぁぁっ、あああっ」

 意識がそこ一点に集中して、快感が襲う。

 耐えられず足がガクガクと震え出し。

「ーっっ!!」

 ビクンと大きく反り返り、二度目の白濁を放つ。

「っはぁ……はぁ……はぁ……」

 激しく散った飛沫は鏡のあちらこちらを濡らし、汚した。液体がぶつかる音が艶めかしい。

「ん、はぁ、はぁ」

 乱れた息を何度も吐き出しては吸って。漸く呼吸を整え、濡れた鏡を見るとそこには疲れた顔の自分がいて。

 現実を、打ちつけられる。

「何よ……俺様、一人で盛り上がっちゃって……」

 疲れた体はへたり込んで、下を向いたことでぽたぽたと床に涙が落ちた。

「情けないねぇ……涙、止まんないわ」

 未だ痛む魔導器のせいか、残った虚しさのせいか。

 壊れたように涙が流れ、乾いた笑いを吐いた。肉体以上に、精神が衰弱していた。

「……」

 しばらく無心に浸れば、徐々に落ち着きを取り戻し、涙は枯れ果てたように止まった。

 重い体を起こし、ベッドに向かって歩く。すぐ傍にある筈なのに、酷く長く感じる距離。力尽きたように倒れ込むと、体を受け止めシーツが弾む。埃が舞いそうなその音が、柔らかくて心地良い。

 顔をシーツに埋めた途端激しい疲労感が一気に込み上げて。睡魔に取り込まれ、俺は眠りについた。


 目が覚めても憂鬱な気分は晴れなくて。忘れたいと願ったユーリも忘れられなくて。

 シュヴァーンの言葉は全て自分の思考そのもので。常に、自分が抱いている感情で。

「……付け込まれちゃったわね……」

 開ききらない瞳を動かし遠目で鏡を見る。映っているのは自分の姿。

 自分と同時に、シュヴァーンの姿。

「俺様もシュヴァーンも、同じじゃないの」

 なのにシュヴァーンを。シュヴァーンだけを否定してしまう。

 シュヴァーンが裏切っている。シュヴァーンが裏切ったのだと。シュヴァーンだけを憎めばいい。シュヴァーンのせいで嫌われてしまうなんてごめんだ。

 そんな感情が後を絶たない。

「なぁ……あんたさんは、俺にとって重荷だよ」

 同じだが違う。

「俺には、あんたみたく何もかも棄てちまうなんて……出来んよ」

 そう、出来ないんだ。レイヴンとして生きてきたほんの短い間に。シュヴァーンにはなかった心が、芽生えた。好き。大事。そして……


「生きたい……」


 仲間といると。青年といると、世界が百八十度変わって見えるんだ。

 俺はまだ、その世界を生きたい。ユーリと、生きたい。

「ユーリ……」

 目の覚めきらない瞳に、再び訪れた睡魔に引きずり込まれ。

 レイヴンは夢の中へ就いたのだった。






2008.10.1