その日は突然の雨に降られた。
降られたのは俺じゃあないが。
怪しくなった雲行きは、ラピードと偵察へと向かった青年が宿へと戻る前に、堪えきれずに空を泣かせてしまった。
(こりゃダメだわ)
雨はあっという間に強くなり、地面を隙間なく浸していく。窓から天気の行く末を見守っていたレイヴンは、頬杖をついた顔に苦笑を浮かべた。
宿の同室にいるカロルが不安そうに「ユーリ、ちゃんと雨宿りしてるかなぁ」と言ったすぐ後に、してないだろうなぁと溜息を吐いた。
「よし」
「あれ、レイヴンどこ行くの?」
レイヴンは立ち上がり、棚にあるタオルを手に取る。
ユーリが戻ったら皆で食事にする予定のギルドの首領は、帰りを待たずして部屋を去ろうとする男の動向が気になる様だった。
「青年のことだから濡れながら戻ってくるかもしれんし、お出迎えにね」
大丈夫よ、と付け加えると、レイヴンはタオルを抱えて部屋を出た。
部屋から程なくして見える、宿から外へと繋がる扉に手をかける。
ドアノブを回しカチャリと開けば、外との隔たりがなくなり、湿り気が一気に流れ込んできた。雨で下がる気温はいただけないが、肌に纒わり付くような湿度は嫌いじゃない。
外へ出て、屋根の届くギリギリに立つ。雨の匂いを嗅ぎながら、レイヴンはしばしの間、ユーリの帰りを待つ。
青年のことだ、少年が言うように、きっと雨宿りをしたら皆を待たせる事になると、この程度の雨ならば歩みを止めないだろう。予想ではない、確信だ。
程なくして、微かな声と水を弾く足音が複数、遠くの方から聞こえてきた。
(やっぱり、ね)
姿はまだ見えないが、ユーリとラピードの物だろう。これもまた確信だ。
一向に弱まらなかった雨を見つめながら、ユーリが行くと言えば付いて行くしかなかったであろうラピードに、少しばかり同情した。
「っは、思ってた以上に濡れたなラピード」
「ゥゥ〜、ワフッ」
「う、わ、おま、今のワザとだろ」
雨避けが何も無く、全身余すところなく水を被ったラピードは、腹立ち紛れと言わんばかりにワザと水溜まりに飛び込んでは、ユーリに水を浴びせていた。
もっと慌てているかと思いきや、近付いてくる二つの声は何だか楽しそうだ。
「あれ、おっさん?」
宿を目前にして、扉の前に佇むレイヴンを見付けてユーリは目を丸くする。
駆け足でスライディング気味に屋根のある所に飛び込んで来る一人と一匹。
「ちょっと、二人とも濡れすぎ」
しとどに濡れた体を見て、こりゃタオル一枚ずつじゃあ足りないわな、とレイヴンは頭をひと掻きした。
「何してんだわざわざ外出て」
「見てわかんでしょー、おたくらが濡れて帰ってくると思ってたからタオル持って待っててあげたのよ」
ほら、と抱えていたタオルを一枚ユーリへと手渡す。ラピードにも、と屈もうとした瞬間、見計らったようなタイミングでブルブルブル! と全身を震わせて水を弾き飛ばされる。
「わ、ちょっと待ってわんこ! 冷たっ」
「はっはっ、やられたなおっさん」
「ワフ!」
「わざとなの? 今のわざとなの?」
自分の分のタオルも持って来るべきだったか、とトホホと大きく息を吐いて、ラピードの頭にタオルを掛けガシガシと拭いてやる。
人に水をかけておきながら、何だか嬉しそうな顔をしていて、ラピードの無邪気な一面を垣間見た気がした。
「よし、ってちょっと青年」
ラピードの雫を────大半は自分で払ってくれたが────あらかた拭き取り立ち上がると、ユーリの方は渡したタオルを頭に掛けただけで、未だ戻ってきたままの姿だった。
「ちゃんと拭きなさいってば」
「あれ、俺の事は拭いてくんないの?」
「やだ、どういう心境なのそれ」
単に面倒なだけなのか、俺をからかって遊んでやろうとでも思ったのか。
にやにやしながら一向に動こうとしない青年に呆れながらも、それに反して鼓動がトクリとひと跳ねする。
目の前の男は知りもしないだろうが、俺はユーリに対して、少なからず、仲間という意識とは別の意味での好意も持ち合わせているのだ。
どうしたいとか思う程明確なものでは無いが、青年の些細な一挙一動でも、俺の鼓動は時々こうやって乱されてしまう。
更に、ことこの青年は、自分の放つ色香には無頓着だ。
仕方無しに拭いてやろうと、頭のタオルに手を伸ばして、ふいに髪を流れる雫を目が追いかけてしまう。
ユーリの綺麗な黒髪を撫でるように伝う雫。ポタリポタリと、前髪の毛先からその雫が滴り落ちて、やたらと肌蹴た胸元へと……
「おっさん?」
「っあぇ?!」
声を掛けられて、青年の均整の取れた綺麗な身体に見蕩れてしまっていた事に気が付き、我に返る。
自分でも何と言ったのかよくわからない言葉が口をついて出て、笑われた。
「何見てんだよ」
「……は〜水も滴る何とやらね、フェロモン垂れ流しすぎよ」
平常心を装い冗談混じりの台詞を口にしながら、レイヴンは止まっていた手を動かしてユーリの髪を拭く。
……危なかった。青年が呼び掛けてくれなかったら、放たれた色気にあてられて、生唾を飲み込んで赤面していたに違いない。
なんなら、手を伸ばして肌に触れていたかもしれない。そんな様を見せずに済んだ事に、レイヴンは内心ホッとする。
(まったく、なんだってこんなに色っぽいのよ)
心の中で文句を言いながら、こちらもあらかた────ラピードと違い頭だけだが────水気を拭き取って、最後にポンポンと頭を叩いて終わりの合図をした。
「サンキュな」
「どういたしまして」
手を離すと、ユーリは濡れたタオルを肩に掛けた。中に入るように促し、宿の扉を開ける。
「とりあえず、先にお風呂済ませちゃいな。風邪ひくよ」
「いや、先に飯にする。待ってんだろ?」
頭を拭いたとはいえ、こんなにずぶ濡れでそのまま飯を食う気になるのか、と思ったが、そもそもこの男が雨に打たれてまで帰ってきたのは皆を待たせたくなかったからだ。
「そうだけど……おっさん知らないよ?」
出来れば先に体を温めて欲しかったが、今更粘ったところで意味もなく。レイヴンは諦めてユーリが仲間の泊まる部屋をノックするのを見守った。
そして扉を開けて出てきた一同が、レイヴンと全く同じセリフを吐いたのは言うまでもないのだが────。
「ぶぇっくしょん……っあー」
食事が終わるか否かのところで、ユーリが豪快にくしゃみをしたのを取っ掛かりに、ほら見た事かと各々のツッコミが容赦なく飛ぶ。
とりあえず優先すべき事を済ませたユーリは、今度は抗うこと無く、魔導少女を筆頭に飛んでくる心配の裏返しの軽度の罵りを浴びながら、シャワールームへと向かった。
それからいくらもしないうちに、カラスの行水の如き速さで青年が部屋に戻ってくる。髪の長さを考慮すると、俺より速いなんてどう考えてもおかしいのだが。
ちゃんと洗ったんでしょうね? と言おうとして、青年に目を向けてレイヴンは絶句した。
「っ〜……はぁぁ」
目の前に立つ男は先刻ここへ帰り着いた時と同じ。髪の毛は上から下まで見事に水に浸されていて。
更に、上着は軽く羽織られただけで、ただでさえ、開けすぎでフェロモンだだ漏れの胸元から、視線を逸らすこと数多だというのに。
引き締まった腹部から下半身へと続く腸腰筋のラインまでが、余すことなく堪能出来てしまう。
肩に掛けられたタオルが申し訳程度に水を吸っているが、濡れて漆黒を帯びた髪からは雫が滴り落ち、胸元の筋肉を撫でて、形の良い薄く割れた腹筋を伝い、綺麗に開けた臍を……とそこまで行って、また魅入ってしまった事に気付き慌てて首を振る。
「そんなに熱い視線で見られたら照れるだろ」
「も〜! 青年は自分の色気自覚して〜」
こっちは必死に抑えているというのに、見られている当人は全く動じていないもんだから、半ば開き直りで告げる。
さすがに僅かだが頬に熱を帯びているのがわかり、面に出ていないことを願うばかりだ。
すぐ近くとはいえ、青年がこの格好で部屋の外を歩いてきたのかと思うと目眩がしそうだった。女の子達とすれ違って無ければ良いけれど。
なんせ男の俺ですら────好意というフィルターがあるとはいえ────こんなに動揺してしまうのだから。
やり場のない視線をとりあえず顔に向ければ、これまた顔も綺麗なもんだから何だか悔しくなった。
「なんで髪くらいちゃんと拭いてこないかねぇ」
「おっさんが拭いてくれるってわかってるからだろ」
この際、見せびらかされた肉体美については置いておくとしても、滴り落ちる程に濡れたままの髪くらいなんとか出来んのかと指摘すれば、とんでもない返事が返ってきて、レイヴンはしばし開いた口が塞がらなかった。
「……おたくねぇ……」
呆れを遥かに通り越して、なんだか胸の辺りがこそばゆい。
「だからそれ、まじでどういう心境なのよ……」
嬉しいと言うべきか、恥ずかしいと言うべきか。
よく分からないざわつきに頬をひと掻きして、渋々備え付けのドライヤーを取りに立ち上がる。
青年は満足気ににまりと口角を上げると、ソファに腰掛けた。レイヴンはソファの後ろに回り込むと、ユーリの肩に掛かったタオルを手に取り、軽く髪を拭いてやる。
結局、見事青年の思惑通りに動いてしまっているわけで、してやられた感じだった。
綺麗な黒髪の余分な水分を拭き取り、ドライヤーのスイッチを入れる。押し出された温かい風がユーリの髪をふわりと揺らす。
食事を終えて早々、部屋の端のベッドに大の字で眠りに就いた少年を起こさないか気にかけながら、丁寧に温風を当てていく。
少しずつ乾いて透明感が生まれる髪。指をすり抜け、手のひらから零れていく綺麗な髪に見蕩れながらレイヴンは呟いた。
「こんなに綺麗なんだから、大事にしなさいな」
すると天井を仰ぐように首を後ろに傾けて、ユーリはレイヴンの顔を見て笑う。
「そうだな、大事にしてくれよ」
「俺なの?」
「重役だなぁ、頼んだぜ? レイヴン」
何やら楽しそうな青年に、それを言うなら役得よ。と誇らしげな気持ちになってしまうくらいには、レイヴンはこの行為に優越感を感じていた。
好きな相手の髪に触れる事を、許されているのだ。
ユーリはわかっているのだろうか。深い意味など、そこにはないのかも知れないが。
「まったく……しょうがない兄ちゃんだね」
そうだとしても、ユーリが許したこの時間は、それだけで特別なものなのだ。
(ずっと、こうして居られたらそれだけで……)
温かい風の音だけが聞こえる。
心地良さそうに目を閉じるユーリの、段々と乾いていく長い髪を漉きながら、レイヴンもまた、満足気に微笑んだ────。
2022.3.8
お題「黒髪から滴り落ちる水滴」より
「はじまりを告げる」収録作