腕の中の灯火

 神になんて祈らない。

 信じる者を否定する気はないが、見えもしない、居るのかすらわからない不確定要素に、運命や人生を委ねてやる気なんてこれっぽっちも無かった。


 この時までは────。



   ◇   ◇   ◇



 帝都ザーフィアス。

 今や美しい街並みは面影すらなく、異様に肥えた蔦が地面を抉り、塀を埋め尽くし、そこは樹海と化していた。所々で開かれた花の鮮やかさが、逆に異常さを際立たせている。

 結界があるというにも関わらず魔物が入り込み、更にエアルの暴走で、蔦ばかりか魔物までもが暴走し、凶暴化していた。

「くそっ……」

 一振りで息の根を止められたのはもはや過去の話。

 今では硬い装甲が、俊敏さが、一回り大きくなった牙や角が、剣先を弾いたり躱したり。仕留める為に使う体力は格段に増えたし、片がつかないうちに別の魔物が迫り、防戦に持ち込まされることすら出てきた。

「はぁっ……!」

 ユーリは宙へと浮かせた剣をタイミング良く掴むと、そのまま刀身を思い切り叩き付けた。ギャッという、虫が潰れたような奇妙な鳴き声を発して、飛んでいた一匹が真っ二つになり葬られた。

「援護お願い!」

 力強いリタの声に応じて、周囲を帯がはためき、魔力が集う。呪文を唱える間無防備になる少女の周囲で、カロルが振るうハンマーが、重い音を立てて二足歩行で迫る鳥の、斧のような嘴を叩き折る。

 ジュディスは空中を飛び交う巨大蜂の攻撃をいなしながら、隙を見て高く飛び、槍で胴体の中心を貫いた。

 そうしているうちに、リタの魔導器で練られたエアルが地面を揺らす。

「いくわよ……グランドダッシャー!」

 声に合わせて、距離を詰めてきていた魔物達の足元から夥しい数の巨大な岩が聳え、地に足を着く者も、空を舞う者も、範囲内に居たものは等しく貫かれ、纏めて何体かが息絶えた。

「や、やった……!」

「でも、まだ終わりそうもないわね……」

「喋ってる暇あったら、手動かしなさい!」

 効果がない訳では無い。確実に倒している筈なのに、集団で襲いかかり未だ途切れることのない魔物との連戦で、誰もが皆額に大粒の汗を浮かべ疲弊していた。

「っほらよ、受け取れ……っ愛してるぜぇ!!」

 そんな仲間を鼓舞するように、弓を高く掲げ、レイヴンが腹から声を出して弦を弾く。すると温かなエアルの光に包まれ、重力に負けそうになる体がほんの少し軽くなった。

「サンキュ、なっ……!」

 レイヴンへの礼の言葉を口にしながら、ユーリは傍へと迫っていた狼の顎へと、拳を振り抜いた。

「ヒュ〜。さすが、青年……っ」

 こんな時だというのに、レイヴンは軽快に口笛をひと吹きしてみせる。

 一見余裕そうに見えるが、努めて明るく振る舞うレイヴンの顔色は、誰が見ても、明らかにここにいる誰よりも悪かった。帝都へと踏み込んだ時に手を繋ぎたがったのも、あながち冗談ではなかったのではと思える程に、身体──心臓──への負荷が見て取れた。

「ウウゥ、ワゥ!」

 片膝を着きながら息を切らすレイヴンの援護をするように、ラピードが背後の敵を回転しながら退ける。

「ありがと、ワンコ……!」

「ワフッ」

 ラピードが任せとけと言わんばかりに雄々しく吠える。そんな彼の顔にも、さすがに疲労の色が滲んでいた。

「若人達が……おっさんより先にへばるの禁止〜」

 レイヴンはなるべく敵から距離を置き、短い呪文と得意の弓で応戦している。俊敏さを生かしたラピードが敵を撹乱することで、互いに致命的なダメージは避けられていた。

「はぁ、はぁ……、おっさんには、ちとハードすぎるわ……」

 それでも、元より調子の悪そうなレイヴンは、今や立っているのもやっとの肉体を、染み付いた戦闘経験と勘だけで動かし、切り抜けているに過ぎなかった。

 ユーリもレイヴンと同様に、持ち前の気力と体力だけで、何とかこの場を凌ぎ続けている。


 ────エステルが居ない。それだけで俺達は、数の暴力にこんなにも屈してしまうのか。

 カロルも僅かだが癒しの力が使えるが、小さな体で攻撃の要を担う首領に、皆を回復して回るような余裕などはない。城はすぐそこだというのに、積み重なっていくダメージに、段々と集中力が欠け、気を抜けば膝が折れそうになる。

 これまでどれだけエステルの治癒術に助けられてきたのか。当たり前になってしまっていたが、居なくなってから有難みに気付くとはまさにこの事だった────。


「みんな、っ……生きてるか……?」

 最後の一体が音を立て地に伏せる。やっとの思いで勝利を収め、無数の獣達の死骸に囲まれながらユーリが声を掛けると、最初にリタがへたりこんだ。

「なんだってこんな……速く、あの子の所に行かなきゃなのに……っ」

 はぁ、はぁ、と肩で呼吸をしながら、ぺたりと手足を地面へとつける。その横にバタンと大の字で、カロルが倒れた。

「もう……動きたくない……」

「私も。無事だけれど、しんどいわね……」

 倒れるまでは行かずとも、さすがのジュディスも槍に体重を預け、前のめりになっている。

「おっさんも……もーダメ」

「ワフッ……」

 纏まった三人から少し離れた所で、レイヴンは胡座をかいてしゃがみこみ、項垂れて、見えないように胸を抑えていた。そこから少し離れたところに、ラピードも脱力したように腹を抱え、丸くなる。

 ユーリは膝を着いて荒い呼吸を繰り返しながら、目線をレイヴンへと遣る。他の仲間も心配だったが、特にレイヴンが気掛かりだった。

 剣を地面に突き立て、それを支えに立ち上がる。戦闘が終わり緊張の糸が解れたせいで、先程までは感じなかった痛みが突然全身に襲いかかり、ユーリは眉を寄せた。

(こんなにやられてたのか)

 腕や足に無数の切傷。よく気が付かずにいられたなと思える程にスッパリと切れた脇腹からは、まだ新しい血が溢れていた。ユーリはそれを抑えながら、レイヴンへと歩み寄る。

「……おっさん、無事か?」

 近付く足音と声に、レイヴンが返事をしながら顔を上げる。

「あぁ……なんと、か、……っ」

 苦しそうに笑ってこっちを向いたかと思ったその瞬間、レイヴンの顔は強張り言葉が詰まった。

「どうし」

「ユーリ後ろ!」

 どうした、やっぱりつらいのか?

 そう問おうと声にした言葉を、レイヴンの叫びが掻き消す。

 後ろ。

 一瞬遅れて、魔物の咆哮が聞こえた。

 仕留めきれなかった一匹が、死に物狂いで迫って来ていた。

 ユーリは本能的に、振り返りながら剣を構えようとした。本来ならば、凶暴化した魔物の爪を弾くはずの構え。

 ────それが、出来るはずだった。

「……あ?」

 力を入れようとした軸足の膝が、ガクンと折れた。バランスを崩した体がよろける。加えて出血による立ちくらみで、ぐらりと頭が揺れた。

 振り向いて敵を捉えるはずだった視界に、何故か暗鬱な色をした無数の蔦が映る。

 握っていたはずの剣が、指からすり抜けた。


 ……カラン。


 地に落ちた剣先が立てた金属音と、ジュディスとリタの悲鳴にも似た俺を呼ぶ声と、ラピードの鳴き声と、何だか生々しい……肉を裂くような音がしたのと。

 全てをほぼ同時に聞きながら、ユーリは横転した。

 慌てて起き上がろうと腕に力を込め、脇腹の傷が開き、思わず呻く。

「っっく……!」

「……青年……無事かい?」

 断末魔の叫びを上げながら、小刀で心臓を貫かれた魔物が後ろに倒れる。

 本来なら、俺が立っていて、俺が防いでいた攻撃。

 そこには今、代わりにレイヴンが立っていた。

(……情けねえ。庇われたのか、俺は)

「……あぁ、わりぃ……な」

 痛みを堪えながら上体を起こして、気付く。

「無事なら……良かった……」

 振り向かないまま俺の心配をするレイヴンの立つ場所が、赤く濡れていることに。

「おっ……さん……?」

 足元を濡らすそれは、さっきの魔物の体液だろうか。否、そう思おうとしたが、真っ赤に染まる液体は、俺の腹から溢れ出るそれと良く似た色をしていて……何だか、嫌な予感がした。

 ジュディスとリタ、それに起き上がったカロルまでもが、顔面蒼白になってこちらを見ていて、胸の辺りがざわついた。駆け寄ってきたラピードが、俺の足元に寄り添う。

「おい……おっさん」

 踏ん張って起き上がり、何とか傍に寄ろうと足を踏み出した瞬間。

「ごふっ…………」

「っ⁈ レイヴン‼」

 逆流した血を吐き出しながら、レイヴンはユーリに向けて倒れ込む。手を伸ばし両の腕で受け止め、ユーリは支えきれずに膝をついた。腕の中に倒れて露になったレイヴンの前側は、爪に割かれ、腹の肉が抉れ……赤い、血に塗(まみ)れていた。

「は……? ……嘘、だろ……レイヴン!」

「あはっ……やっちまった……でも、ユー、リくんが、何ともなくて……よかったぁ」

「ばっ……か野郎! 何言ってんだ! 良いわきゃねえだろ!」

 声が、まるで自分のものでないように掠れた。先刻ユーリの耳に届いた生々しく肉を裂いた音は、レイヴンが敵を仕留めたものではなく、攻撃をその身に受けた音だったのだ。

 顎の周りを血で汚しながら笑うレイヴンの歪な姿に、ユーリの感情は崩壊した。

「エッ……」

 思わず「エステル」と言いそうになり、唯一腕の中に倒れ込む男を、救う力を持った少女がここにいない現実に、頭の中でサァと血の気が引く音が響いた気がした。

 俺に、この傷を治す術は、ない。

「そんな顔、しないで、よ……」

 伸ばされた手が、頬に触れる。そっと触れ、すぐに力なく項垂れる手を掴んで握った。

「だいじょぶ、だから……ね?」

「も、いい、喋んな……」

 泣きたいのは、レイヴンのはずなのに。俺を安心させようと、引き攣りながらも笑ってみせるもんだから。情けなさに胸が痛いくらいに締め付けられ、涙で視界が滲んだ。

「っっ……無茶してこの馬鹿!」

 覚束無い足取りで走ってきたリタが、間近でレイヴンの傷口を見て、悲痛の叫びをあげる。その瞳は雫を浮かべていた。

「ねぇ、きついようだけど……またいつ魔物が襲って来るかわからないわ」

 冷静さを失ったユーリに、遅れて駆けてきたジュディスが指をさしながら言う。

「早くお城に入った方が、安全じゃなくって?」

「……っ、あ、あぁ、そうだな」

 ここにいても、私達に出来ることはない。

 そう語るジュディスの瞳も、僅かに潤んでいるように見えた。

「おっさん、少しだけ……辛抱してくれ……」

 語りかけたその言葉に、もう返事はなかった。

 ひゅーひゅー、とか細い呼吸を繰り返すレイヴンの翡翠の瞳が、俺の声など聞こえていないかのように、虚空を見つめている。

「…………っ!」

 ボロボロの体に鞭打って、ユーリはレイヴンを抱えたまま立ち上がる。力んだ事で開く傷口からは新たな血液が吹き出したが、構うことはなかった。膝が笑うが、一心不乱に歩を進める。

 さすがに「待ってよ」など口に出来る空気でないことを察したカロルが、鞄を引き摺りながら無言のまま後を追い、最後尾には尻尾を下げた悲しそうなラピードが続いた。



   ◇   ◇   ◇



「レイヴン…………」

 泣きそうに震える声を、上手く隠せているだろうか。頼りなく名前を呼びながら、空っぽのベッドにレイヴンを横たえる。

 門をくぐり城内へと入ると、そこは外とは違い、不気味な程に静まり返っていた。

 とにかく休める場所をと駆け足で訪れた食堂前で、ユーリ達はシュヴァーン隊の面々と、下町の見知った顔と鉢合わせることとなる。

 彼らは……特にルブランは、満身創痍のユーリを見て驚くと同時に、その腕に抱えられたシュヴァーン──レイヴンの腹の傷を見て絶句したが、有難い事にこちらが何も言わずとも状況を汲んで、直ぐ様個室へと導かれた。

入室した薬品の匂いがするそこは、医務室のようだった。応急処置を施されたレイヴンは、今もただ、静かに眠りに就いている。


 ────抱えた腕の中で、濁りつつも、細く開かれ揺らいでいた翠の瞳が完全に閉じられ、レイヴンが脱力した。投げ出された手が、ぶらり、と。もはや肩から下がっているだけのパーツと化す。

 刻一刻と冷めていく体温と、小さくなる鼓動。赤黒い血液を固まらせた口元が、微かに呼吸の為に動くことで、レイヴンの命の灯火が消えていないのを確認する。その度に、ユーリは張り裂けるんじゃないだろうかと思う程に胸が痛んだ。

 先程改めて傷口を見た時は、その深さと痛々しさに絶望しそうだったが、ルブランに渡された回復薬と処置のおかげか、それともただ、顔を汚す生臭い血の跡を綺麗に拭ったからなのか。心做しか顔色が少し良くなったような気がした。

「……エステルを、助けに行きましょ」

 いつもなら先導する立場のユーリが何も言い出さないので、拳をぎゅっと握りしめながら腹を括ってリタが口を開いた。

皆首を縦に振る中、ユーリだけが躊躇っていたが、ラピードのクゥンという鳴き声で、漸くレイヴンから視線を外した。

「あぁ……行こうぜ」

(待ってろよ……。必ず)

 必ず助けてやる。


 心の中で呟いた言葉は、エステルに向けて。

 そしてそれは同時に、レイヴンに向けてでもあった…………。



   ◇   ◇   ◇



「これで、傷は大丈夫です」

 ベッドで眠るレイヴンを、エステルの癒しの光が包む。包帯越しで傷口は見えないが、止血しきれなかった血液を吸い赤黒く染まる包帯に、エステルは険しい顔を浮かべながら治癒術を施した。

「次はユーリです」

「あぁ……悪ぃな」

 エステルも取り戻し、レイヴンの無事も確認でき、漸く一安心したユーリは、壁に体を預けて脱力したように床に座り込んでいた。

 魔物のせいでついた傷だというのに、まるで自分のせいかのように辛そうな顔をしながら、エステルはユーリに向けて治癒術を唱える。「ヒール」と聞こえた声に合わせて、温かい光が傷口を癒していくのを感じた。

 ────辿り着いた御剣の階梯で待ち受けていたのは、瞳を濁らせ、アレクセイによって操り人形と化していたエステルだった。その時の剣戟でユーリの脇腹の傷口が開き、幸か不幸か流れる鮮血を見て、エステルは正気を取り戻した。

 その後は主にリタの活躍によるものだが、一致協力した俺達はエステルを術式から解放し、晴れて救出に成功した。

 ……そして今、緊急性の高いレイヴンをはじめに、俺達は順番に治癒を施されているのだ。

「正直、ボクもう、ダメかと思った……」

 ベッドに眠るレイヴンの顔色がいつもの色に戻っているのを見て、ぽろりとカロルが呟いた。「縁起でもないこと言うんじゃないわよ」とすかさずリタに頭を殴られたが、正直な話、ユーリも同じことを思っていた。

 腕の中で段々と弱っていくレイヴン。血の臭い。感触。温かい血液とは逆に冷えていく体。弱々しい呼吸。

 このまま、死んでしまうんじゃないだろうか。そう、思った。

 俺があの時、ふらついていなければ。踏ん張れていれば。そもそも、傷を負わずに戦えていたら…………。過ぎたことを悔やんでも仕方がないと分かりながらも、あの時、あの時、あの時、と自分を責めることばかり浮かんだ。

 遂には神サマってんのが本当にいるのなら、この男を、レイヴンを助けてくれ……と。都合のいい時だけ神に祈る。自分が最も嫌うことを、俺はしようとした。今日ほどそんな曖昧な存在に縋りたくなった日もなければ、そんな自分に嫌気がさした事もない。そのくらい、レイヴンを失うことが怖かった。

「ワフ」

「……あぁ、よくやったなラピード」

 最後にエステルの治癒を受けたラピードが、ユーリに擦り寄ってくる。頭を撫でながら、強ばっていた顔が少しだけ弛んだ。

 下町の連中が無事に避難していた事にすら、喜ぶ余裕がなかった自分をハッと嘲笑いながら、まだ上手く力の入らない体を動かして、レイヴンのベッドへと歩み寄る。

 レイヴンの瞳は未だ、閉じられたまま。

「…………」

 血を吐いて赤黒く染まった口元を思い出し、背筋がゾッとした。

 先程まで治癒のためにエステルが腰掛けていたベッドサイドの椅子に座って、今は安らかな寝息をたてるレイヴンの心臓へと、そっと手を置く。間違いなく、どくりどくりと脈打つ感覚に、あぁ、これは夢じゃないんだと実感して、ユーリははぁ、と大きく安堵の溜息を吐いた。

「……さてと。エステル、試したい事があるから付き合いなさい」

「あ、はい!」

「……私も、フェローに用があるから席を外すわね」

「えっ? あ! ぼ、ボクも! えっと……下町のみんなの様子を見てくるよ!」

「ワン!」

 その後ろ姿を見て、皆が次々と部屋を後にする。気を遣わせてしまったか、と扉の方を振り返り、ユーリは頭をひと掻きした。

「なぁ、そろそろ目、開けろよ……」

 ……俺は、レイヴンが好きだった。

 この気持ちを自覚したのはいつだっただろうか。

 放っておけない。目が離せない。甘やかしたい。甘やかされたい……。そんな幼稚で、淡い恋心。あけすけにしているようで、決して本音を明かさなかった男が、挙句シュヴァーンとして死を選ぼうとしたあの時。漠然としていた気持ちは確信に変わった。

 当の本人は気付いていないだろうが、周囲にはとっくにバレていたようで、エステル以外には物好きと笑われたが、それでも皆理解はしてくれていた。

『伝えないなんてユーリらしくない』

 聡い二人に突っ込まれた事もあるが、この男はそんな事を告げようもんなら、時間をかけて少しずつ開くのを許された扉を再び閉ざしてしまうか、耐えられずに逃げ出してしまう予感しかしなくて、言う気になんてならなかった。

 だから、これでいいと思っていた。

 レイヴンの命は俺達が預かった。そうして、傍で命の灯火が輝く姿を確認出来るようになったのだから、これで満足だと、思い込もうとしていた。

 先刻、レイヴンを失う恐怖に駆られるまでは────。

「っっ……」

 何度でも鮮明に蘇る、腕の中で息絶えそうなレイヴンの感触。慌てて手を握り、さっき確認したばかりなのに、温もりに、これは夢じゃないんだと反復する。

「なぁ……レイヴン……」

 ギュッと手を握り締め、ユーリはぽつりぽつりと呟いた。二人しかいなくなった部屋が、とても広く感じる。

「はやく、目ぇ覚ませよ……いつもの調子で、なんつー酷い顔してんのよって笑えよ……」

 口元は笑みを浮かべるも、瞳は潤んで、目尻から涙が零れた。

「……俺、あんたのことが……好き、なんだ」

 溜まった涙で滲む視界に、レイヴンを捉えながら。ユーリはひたすら喋り続けた。

「言うつもりなんてなかった。でも、あんたを失うかと思ったら、ちゃんと言っときゃ良かったなって……例え叶わなくても」

 言わないのと、言えないのではわけが違う。言えないまま、知らないまま逝かれるなんてまっぴらだった。それが、レイヴンを困らせたとしてもだ。

「あぁくそ、何言ってんだ俺……」

 人目が無くなり抑えのきかなくなった感情が、次から次へと涙と言葉になって、外側へと溢れだしてくる。

「叶わなくてもいいから……目、覚ましてくれよ……」

 神に祈りを捧げるように、両手でレイヴンの手を握り、ユーリは静かに泣いた。ぽろぽろと、落ちる雫がシーツに染みを描く。

 とめどなく流れ出る涙は、握るレイヴンの手も濡らしていった。

「…………っ」

 引き攣るように口から息を吸い、嗚咽を漏らさぬよう、堪える体が震える。その振動に合わせて、レイヴンの指先がひくりと動いた。

「…………ね、さっきのって……本気にしていいの?」

「れっ……イヴン」

「おはよ、って、なんつー酷い顔してんのよ……」

 まだ開ききらない重そうな瞼と、疲れた顔に浮かぶぎこちない笑み。喉から吐き出される気怠げな台詞。

 俺の、聞きたかった声。

「イケメンが台無しじゃない……のっ、て」

「っっ」

「うわっちょ、っと青年……?!」

 欲しかった言葉を紡いでいる途中だというのに、ユーリは堪らずベッドに横たわるレイヴンに抱き着いた。ぎしり、とベッドが軋む。

「……ごめんね。青年の声がして、目が覚めたわ。……待っててくれて、ありがと」

 驚きつつも、レイヴンの手が優しくユーリの背に回された。その手は、とても温かかった。

「遅いんだよ……かっこつけやがって……」

「ごめんって……」

 ユーリの腕に力が篭もる。思わず抱きしめてしまい、傷は治ったとはいえ未だ巻かれたままの包帯の下に痛みはないだろうかと、ハッとして手を離す。

「はは……も、痛くないよ。……嬢ちゃんが、治してくれたんでしょ」

 俺酷いことしちゃってるのにね、と自嘲気味に笑いながら、レイヴンは傷のあった腹に手を這わせた。

 そしてその手を握ると、視線をユーリへと向けた。

「……ねぇユーリ、さっきの……だけどさ」

 透き通るような、生の宿る翡翠が、ユーリの黒曜石の瞳を捉える。

「……あぁ。俺は、あんたが好きだ」

 視線を交わしながら、ずっと言わなかった想いを初めて、面と向かって告げた。

「だから、あんたには、生きて……幸せになってほしい。こんな所で死なれてたまるかよ……」

 嘘偽りのない気持ち。

 本当はそこに俺の隣で、と付けたいところだが、あと一歩が踏み込めずに言い留まった。とにかく今は、レイヴンを想う奴がいるんだと解らせたい一心だった。

「俺は、一度死んでんのよ」

 レイヴンが、視線を逸らし、どこか遠くを見るように呟く。

「だからって! 簡単に投げ出すんじゃねえ……!」

「まあ、最後まで聞きなさいって……」

 話の腰を折るように食い気味のユーリを宥め、レイヴンは続けた。

「おまえさん達に生かされたこの命、誰かの為に……仲間のために使いたかった」

 その声色は、終始柔らかかった。

「だから俺、ああ、ユーリの事守って死ねるんなら本望じゃねえのって、あん時は思ったんだけどさ……」

 無精髭の生え際をカリカリと掻きながら、レイヴンは困ったように笑う。

「どうせ死ぬなら伝えておきたかったなぁって思ったら……死ねなくなっちゃった」

「……」

 何を。と喉まで出た声を、まだ終わらないレイヴンの言葉を遮らぬように、ユーリは腹へと飲み込んだ。

「つくづく俺ってば、死ねない呪いにかかってるみたいだわ……」

 はぁ、と軽く溜息を吐き、レイヴンは逸らしていた視線をユーリへと戻した。

「俺もね、ユーリが好きなのよ」

 眉を八の字にしながら、ユーリを正面に捉え、レイヴンが告げる。

「言わないのと言えないのって、こんな違うもんなのね……」

 耳に届いた言葉があまりにも想定外で、ユーリは目を見開く。

「……俺、疲れてんのか?」

「疲れてるでしょうね」

 今まで隠してきた気持ちを。目の前の男も、同じように隠してきたというのか。同じように、俺が、好きだというのか。

 ユーリは額を抑えて俯いた。

「すげぇ、都合の良い言葉が聞こえちまった」

「都合が良いなら、良いじゃねえの」

 俯くユーリの瞳から、ぽたぽたと大粒の雨が降る。

「俺、好きだっつったよな」

「うん、……俺も、おまえさんが好きだって言った」

 確認の為に吐いた言葉に、朗らかな声音で返される。ユーリはずっと張り詰めていた胸の辺りが温かく解れていくのを感じながら、涙で濡らした顔を上げた。

「おまえさんがこんなに泣き虫だったなんて知らなかったわ」

「俺だって、知らなかったよ……カッコ悪ぃ……」

 涙を腕で擦って拭い、真剣な面持ちでレイヴンを見つめる。そして大きく深呼吸をして、さっきは言い出せなかった続きの言葉を、声に乗せる。

「俺の隣で……生きてくれ、レイヴン」

 ユーリの潤む瞳に映るレイヴンが、同じように涙を浮かべ、くしゃりと笑い頷いた。

「俺様、もうこんだけで十分幸せだわ……」

 幸せすぎて死んじゃいそうと続く言葉に、ユーリはレイヴンの額を指で弾いた。

「痛っ、じょ、冗談よ、冗談……手厳しいねぇ」

「ったく……ほんと、あんたって……」

 両手で額を覆うレイヴンを見ながら微笑むと、ユーリはまるで電池が切れたかのように、ふらりとレイヴンへと倒れ込んだ。

「おっと……。……ずっと、気ぃ張ってたんよね」

 ベッドに散らばる、ユーリの綺麗な髪を梳くように頭を撫でながら、レイヴンは静かに呟いた。

「ありがとね、ユーリ……。もうどこにも行かんから、安心してゆっくりお休み」

「…………」

 本当に神が存在するのなら、礼のひとつくらいは言ってやらねぇとな、と思いながら。

 意識を手放し、ユーリは夢の世界へと旅立った────。






 そこは温かく、とても落ち着く匂いがした。

 目の前には、赤く燃える灯火ひとつ。優しくそれを包み込んで、ユーリは呟いた。

「俺が……幸せにしてやっから……生きてて良かったって……あんたに……」

「も……なんつーこと寝言で言ってくれてんのよ」

 それを聞きながら、レイヴンは火が点いたように顔を赤く染めた。

「……起きたらもう一度、ちゃんと聞かせてちょうだい」


 とくんとくんと、胸の灯火を燃やしながら。


 レイヴンが、眠るユーリの額に落とす口付けの音が、静かな部屋にひとつ、微かに響いた────。




 




2022.4.29

リクエスト「どちらかがどちらかを庇う」

「はじまりを告げる」収録作