屍人は夜を彷徨う

 息を吸うのも寒い。吸い込んだ空気が体内のどの部分よりも冷たくて、己の体の中の中にまで確りと熱が通っている事を実感する。

「っ……はぁー…………」

 布団の中。呼吸と共に身震いをひとつ。体は熱を帯びているのに、否、帯びているからこその外気との差に寒気を感じた。

 腕だけを掛布から出しゆっくりと虚空へと伸ばして、ぽつぽつと体の震えに合わせて鳥肌が浮かび上がっていく前腕を、ただ、静かに眺める。 

「………………」

 伸ばした手の先には、行き止まりの天井しかない。月明かりに照らされた、狭い宿屋の薄汚れた天井。時折陰るそれを、ぼんやりと手の向こう側に映しながら。男は、呆、と熱の篭った声を吐き出した。



「なあ。おまえは…………死にたいんじゃ、なかったのか」



 自分しかいない空間。答える者無き問いは、四角く区切られた闇へと吸い込まれて消えていく。男は再び体を震わせると、伸ばした腕を下ろし、頭まで全て覆い隠すようにして布団へと潜り込んだ。


 目を閉じて、闇の中。

 重い息を吐き出して、ひとり思う。


 以前は、こんな事はなかったはずなのに。

 病に臥せる体が。熱に浮かされた体が。死を、望むはずの体が。

 死を、恐怖する。

 それどころか決まってふつふつと湧き上がる、ある感情────寂しい。

 ぶるり、と布団の中で丸めた体が大きく震える。

 この震えは寒さになのか、それとも心細さになのか。答えを知りたくなくて、男は直ぐ様思考を放棄した。


 はやく、眠りたい。


 寂しさを埋めるべく、無意識に辿り着いてしまった人物に、鼓動が逸る。視界を暗闇で閉ざしても、一度開いてしまった記憶の抽斗からは、その温かい声が、姿が、絶え間なく脳裏に浮かび上がってくる。


 はやく、はやく。


 焦りから眉を寄せ瞼をキツく閉じたところで、記憶にある映像が鮮明さを失うことは無く。次々と浮かぶ断片が重なっていく毎に、心臓がキリキリと音を立てて痛んだ。

 噛み締めた歯が唇を挟んだのか。口の中に、微かに鉄臭さが滲む。


 はやく…………落ちてくれ。




 それは果たして、誰に願ったのか、誰が叶えたのか。


 横になる前に口にした解熱剤が漸く効いてきたようで、体が少しづつ軽くなっていくふわふわとした感覚と共に。

 男の────レイヴンの脳裏を満たす闇の中では、背景に溶けそうな艶やかな黒髪が翻り、


 ────振り返った、愛おしい青年の顔が………………


 ………………

 …………

 ……




「ん…………」

 温かい。熱による不快感を伴う熱さではない、包まれるような心地よい温度。体を動かすと、柔いシーツがくしゃりと弛む。もぞもぞと掛布を手繰り寄せ、微睡みの中ふと感じた違和感の正体を考えること、数秒。


 ────ベッドの中に、何か、いる。


「……っっ!」

 目を見開いて、掛布を捲り飛び起きる。反射的に、対象との距離を取ろうと力んだ体が、ベッドに横たわる者の姿を映し出して、緩んだ。

「…………えっ」

 間の抜けた声が静かな部屋に響く。勢いよく捲った掛布からは体温が外へと霧散するのと同時に、露になった、自分ではない男の体。

「ユー……リ?」

 視界に映った美青年の名を口にする。整った寝息を立て眼前で横になっているのは……どこをどう見ても、間違いようがない。それは、良く知る男────ユーリだった。

 流れる絹糸のような髪が、シーツを黒く染めている。インナーだけのラフな格好は前が全開になっていて、ただでさえ普段から目のやり場に困るというのに。胸元から、薄く割れた腹筋までもが曝け出されて、目を遣る度に映り込む肌色に心臓がばくばくと加速する。

 なんで、ユーリが、ここに。

「夢…………? ……じゃない……よな……」

 咄嗟に出てきた答えを頼りに抓った頬には、じわりと痛みが響くだけ。状況の理解が追いつかず、何故、何故、何故────ただただそればかりが浮かんでは、レイヴンの思考は埋め尽くされていった。

「……レイヴン、起きたのか」

 そうして訳が分からぬままに暫し布団とユーリとを眺め続けていると、ふと寝起き特有の気怠そうな声が耳に届いた。

「っ、ユーリ……! なあ、なんで、ここにおまえさんが……!」

 思わず挨拶もすっ飛ばし食い気味に疑問を投げかければ、微睡んでいたユーリの眼が瞬時にきょとん、と丸く形を変えていく。

「……あ? なんで、ってあんた……覚えてないのか?」

「覚えてないって……?」

 ユーリの見開かれた黒曜の瞳と、レイヴンの翠の瞳がかち合う。そのまま数秒見つめ合えば、ユーリは一瞬だけ困った顔を浮かべ、体を起こすと軽く伸びをした。

 今の聞き方と反応からして、昨晩何かがあった事は明白だ。だが糸を何度手繰っても、レイヴンの記憶からはそれらしい事など、何ひとつとして出てはこなかった。


 体調が悪くて、薬を飲んで、寝た。

 昨晩最後の記憶は、眠りに落ちる前。瞼裏の闇の中で、ユーリが、振り返ったところまで────


「あー…………念の為聞くけどさ。俺、手出してないわよね…………?」

 ベッドで一夜を共にしたうえ、「覚えてないのか」などと問われれば、どうしても辿り着いてしまう短絡的な結論。

 相手はあの青年だ。まさかとは思うけれど、と恐る恐る口にした問いに、一拍置いてユーリが笑い出した。

「……ぷはっ……なーに言い出すかと思えば。残念ながら、出されてねえし出してもねえよ」

 ユーリの綺麗な腹筋が、笑った振動で収縮するのを無意識に目が追いかける。腹を震わせながら告げられた答えに僅かな引っ掛かりを感じながらも、レイヴンは安堵の息を漏らした。

 しかし、だとしたら。

「……俺、何忘れちゃってんのさ」

 お手上げ、と両手を上げながら答えを求める問いを口にした瞬間────


 伸びてきたユーリの手が、唐突に、レイヴンの頭に触れた。


「わ、なに……」

 驚くレイヴンをよそに、ユーリはその手を動かし、くしゃくしゃと頭を撫でる。下ろすに下ろせなくなった両手は行き場を失い空を泳ぎ、更に聞こえてきた、予想の斜め上を行く何やらとんでもないユーリの言葉に、口はぽかんと大きく開かれた。

「……寂しさ、少しはマシになったかよ」

「………………へ? さ、び…………?」

 本日二度目となる間の抜けた声を発して、レイヴンの体が硬直する。

「昨日みたいに、甘えていいんだぞ?」

 整理がつかない頭に尚も送られてくる言葉に、レイヴンは益々混乱して、思考がモーターのようにぐるぐると、勢い良く回り出した。

「ちょっと、ねぇ……さっきから何言って……」

「あと、まだ気付いてないようだから言うけど……ここ。俺の泊まってる部屋だから」

「そんなこと…………って、せーねんの、へや……?」

 立て続けに発される情報に処理が追い付かず、眩暈すら起こしそうで額を軽く抑えた。

 ここが、ユーリの泊まる部屋?

「うっそ……マ、ジで……? いや、でも俺確かに……」

 眠る前。確かに自分に割り振られた部屋にいた。そしてそこで眠ったのも、確かに覚えている。故に一瞬ユーリが冗談を言っているのかと疑いかけたが、改めて辺りを見回してみれば僅かな造りの差に加え、窓から覗く景色も違う事に気が付いて、レイヴンの顔はたちまち引き攣っていった。

「寝る前に廊下であんたを見掛けて、様子おかしかったから声掛けたんだよ」

「見掛けたって……」


 どうやら話を聞くに、無意識に布団を抜け出しフラフラしていたところを、ユーリに見つかり今に至る、ということらしい。聞いたところで、やはり何も思い出せはしなかったのだが。

「そりゃ……すまんね。昨日は……実はちょいと体調が良くなくてさ。そのせいで」

「だろうな。あんた、俺が声掛けるなり、寒いっつってよ」

「そう! そうなのよ! 熱があったみたいで〜……いやー黙ってて悪かったけど、ほら! もうこのとーり今はぴんぴんして……って、やだ、何で笑ってるのよ」

 怪我や不調はいつもなら隠し通すようにしているが、今はむしろ、全てを体調不良のせいにして躱すのが最適解のように思えた。当然、その諸々がバレた時、若人達は皆酷く怒るのを知っているので、今も説教の一つや二つを覚悟していたのだが、何故だかユーリは怒るどころか笑っていて。

「俺、何か変な事言った?」

「いーや、…………その調子の悪かった誰かさんがな、寒いっつって抱き着いてきて、仕舞いには寂しいからそばに居て、なんて言うもんだから」

「は? 抱きっ……え……?」

「熱烈な誘いを無碍にするわけにもいかないし、ベッドに連れ込んで暖めて寝かしつけてやったってわけなんだが…………どうだ? 思い出したかよ」

 言い終わると同時に、ユーリの手のひらが触れる頭の天辺から、さぁ、と血の気が引いてく音が耳の奥を流れていく。

 その血が滾り、拍動に押し上げられ────時間差でレイヴンの顔に、ボッ、と火がついた。それはまるで燃え広がるようにして、瞬く間に全身へと熱を巡らせる。


 有り得ない。野郎を誘う常套句みたいな台詞を、本当に俺が? それが本当に、冗談ではないのだとしたら────


「しっ……死にたい…………」

 大きな溜息を吐き出して、レイヴンは顔を覆ってへなへなと俯いた。

 思わず漏れた言葉に反応したのか、ユーリが頭を撫でる手付きが少々、乱雑気味になったように感じた。払う理由もなくて為すがままの髪の毛は、今やいつも以上にぼさぼさになっている事だろう。

「そりゃあ、死にたくない、の間違いじゃないのか」

「あのねぇ、いくら相手が青年だからって……俺様、こんな醜態晒したのよ」

「俺だからじゃなくて?」

「どういうことよ?」

 言わんとしていることが分からずに少しだけ視線を戻せば、自分へと向けるには、余りにも優しすぎる笑みを浮かべたユーリと目が合って、レイヴンは咄嗟に目を逸らした。

 同じくらいに、こんなに柔らかい声も出せるんだな、と思う程の…………余りにも優しすぎる声音に包まれた言葉が、鼓膜を揺らして、レイヴンの頭の中へと響き渡る。

「…………そんな醜態晒してでも、生きていたくなったんだって、思ったけどな。俺は」

「な、に、言って…………」

 そしてもう一度わしゃわしゃと、今度はまるで猫でもあやす様に撫でられて、レイヴンは返す言葉を失った。

 沈黙を、鼓動の音が埋めていく。

 

 生きていたくなった?

 それは一体、誰のことを言っているのか。

 俺が…………生きて、いたくなった?

 死への恐怖を感じ始めた。裏を返せばそれは、確かに生への────

 

「……そういや、随分安心しきった顔で寝てたみたいだけど……まだ寂しいっつーならもう一回、一緒に寝てやってもいいぜ?」

「?! っば、…………せ、いねんのばかっっ!」

「痛っ……おい、ちょっと待てよレイヴン! って…………行っちまった」

 気付いた時には、拙い抵抗として手近にあった枕をユーリへと投げ付け、レイヴンは部屋を飛び出していた。周囲への迷惑など顧みずに、乱暴に閉めた扉がたてる派手な音が、宿にやたらと大きく響き渡る。

 慌しく廊下に飛び出すと、改めてここがユーリの部屋であった事を実感しながら、レイヴンは僅か数部屋離れた、本来自分が寝泊まりするはずだった部屋へと一目散に駆け込んだ。

「はあーーーーー…………」

 先刻同様、大きな音をたてて閉まった扉へと背を滑らせて、糸が切れたようにずるずるとしゃがみ込む。そして肺が空っぽになるくらいに息を吐いて、熱の篭った顔を手のひらで覆う。


 ずっと、死にたいと思っていた。

 死に場所を、探していた。

 それなのに────


「……いつの間に、過去形になったのよ……」


 撫でられた頭から感じたユーリの熱が、既に恋しい。

 独りが寂しい事を、この体はもう、覚えてしまった。


「見つけたのは、生きる場所の方、ってか……。今更んなって、恥ずかしいったらないわ…………」

「おーい、いるんだろおっさん」

「うわっ?!」

 寄りかかった扉越しにノックの音とユーリの声が響いて、レイヴンの体が跳ねる。

 今の独り言は、聞こえてしまったのだろうか。それこそ今更、隠す意味なんてないのだが。

「恥ずかしがってないで出てこいよ。飯、食い行こうぜ」

「聞こえてるし……ったく、誰のせいでこんな……」

「早くしないと置いてっちまうぞ」

「ちょっ、と……も〜〜せっかちな男は嫌われるわよ!?」


 立ち上がり、扉へと振り向いて。

 深呼吸をして、ドアノブを握る。


 この扉を開けば、そこには俺の────


「………………お待たせ」

「ほら、行くぞ。レイヴン」


 若々しく笑うユーリの、自分へと向けて伸ばされた手を、節榑立つ手で遠慮がちにそっと掴む。

 それは、熱を宿した心と、同じくらいに熱くて。

「髪、ボサボサのままなんだけど……」

「大丈夫、いつも通りだよ」

「……おっさんいつもこんな?」


 夢に見たのと同じ長い黒髪が、すぐ隣で翻るのを見つめながら、レイヴンはぎりぎり届く程度の小さな声でユーリに向けて呟いた。


「ユーリ………………ありがとね」

「あ? あー…………どういたしまして」


 振り返らずに答えたユーリの耳朶が、意外にも僅かに朱に染まっていくのが見えて、レイヴンは強くユーリの手を握り返すと、嬉しそうに顔を綻ばせた。




 此処が俺の、新たに生きる場所。




 屍人は彷徨い歩いて、

 夜の淵で、生と向き合う。








2023.10

おっさんにとっては、ユリロは光。

人としては壊れてしまった屍人は、長い夜闇を彷徨い歩いた末に、再び生を得るという私の脳内妄想。