夜半も近く。人気の無くなった街を、夜風に当たりながら一人ふらふらと歩く。
目的は特にない。ただ目が覚めて、ただ何となく一人になりたかった。
普段は勝手に居なくなると怪しまれ疑われる立場故に、夜が更け皆が寝静まってからでないと、こうして一人で出歩けないのだ。
なんなら夜中に抜け出すのすら、「どこ行くんだよおっさん」と誰かさんの制止がかかる事もある。俺様、信用が無いにも程があるな……と苦笑してレイヴンは溜息を一つ吐いた。
たまには綺麗なお姉様に癒されたいわ、などと浅はかな妄想をしていたら、都合良く女の笑い声が聞こえたものだから、耳がそちらを向いた。声は暗がりの路地裏からだった。
一瞬期待するも、当然声がするということは相手がいるわけで、その声が男のものだとわかると途端に気持ちが萎えた。
(相手はどんな奴だよ畜生)
勝手に悔しくなり、顔くらい見てやろうと路地に近付いた。覗いてみれば、月明かりに照らされて、ウェーブがかった髪を揺らすセクシー系のお姉様の後ろ姿と、その細い腰に回された男の手が見えた。
「うふふ、カッコイイおにーさん、またね」
女がそう言うと、チュッとリップ音が響き、口付けをしたのだとわかる。
「気が向いたらな」
そしてそれに返す声が、自分の知っている声だということも……。
呆気に取られ、レイヴンは姿を隠す事すら忘れて路地の出口に立ち竦んだ。
そこに、やはり想像通りの声の主が暗がりから、黒い服と髪を靡かせて歩いてくる。
「おっさんが迎えに来るなんてこりゃ今日は雨でも降るかな」
「意外だったわ。青年でもこーゆーことすんのね」
「……まあな」
覗きがバレて慌てるでもなく、レイヴンは思ったままの感想を口にした。
ユーリの方も、若干気まずそうにしてはいるものの、さして気にしていないようだった。
「ったく、下世話な事してる暇あんなら少しでも寝て体力回復させとけよ。息切れしたおっさん庇ってる余裕俺ねぇから」
「覗いたのは悪かったけど〜、随分な言われようね」
さっきの女は金で買ったか、どこかで引っ掛けた一夜限りの相手だろう。青年は二十歳もそこそこ、性欲盛んなお年頃。ましてや色男。情事の一つや二つ、あっても驚く事ではないのだが。
(何となくこの青年は、そういうのは嫌がる気がしてたのに)
女が体を売ったのか差し出したのかは知らないが、どちらにせよ「そういうのは好きな奴としろよ」なんて綺麗事や、「自ら進んで自分を汚すような真似するんじゃねえ」などと諭しそうな……そんな男だと思っていた。
口はとてつもなく悪いけれど、夢見がちな理想を現実にせんと貫き通す、眩しいくらいに青臭い男だと。
そうは言ってもやはり、持て余す熱を我慢し続けるのは、男として色々と良くない。
ましてや青年の傍には、絶対に間違いを犯してはいけない相手―嬢ちゃん―がいるのだ。そうならないように、現実は発散するしかなかったのだろう。
「うんうん、青年がちゃんとオトナで、おっさん安心したからぐっすり眠れそうよ」
勝手に解釈して満足気に肩を叩いてみたものの、青年の表情は浮かない。
あんな綺麗なお姉様にお相手してもらって、普通の男なら口角を上げ幸せオーラを振りまいていてもおかしくないというのに。
青年はそんな事にならないのはわかっているとはいえ……それにしても暗い。
皮肉めいた口調はいつもの事だから、すぐには気付けなかったけれど。
「……青年?」
何も返事がない。やっぱり様子がおかしい。正面に立って顔を覗き込むように近付くと、まるで苦虫を噛み潰したような顔で……
「俺、好きじゃねぇんだわ、こういうの」
「へ?」
思わず間の抜けた声が出た。
「悪ぃ……何でもない」
「何でもあるでしょうよ。それってお前さん……」
言うつもりのなかった事を、つい吐き出してしまったのだろう。何言ってんだ俺、と頭をクシャクシャと掻いている。
青年はあの中では、俺を除いては年長者だ。性欲だけでなく、我慢して溜め込んでる思いはいくつもあるのだろう。
時折それを、愛犬に呟いているのを、知っている。
(その相手に、今俺を選ぼうとしたのか?)
仕方なく旅の同行者と認めるしかなかったこの俺を。
「なぁ。あんまり踏み込むと、知らないぜ?」
自嘲気味に笑うユーリに、肩を掴まれた。反射的に身構えて体に力が入る。が、次の瞬間、全く予想もしない展開に、レイヴンの思考は停止した。
青年の端正な唇が、何故か自分の唇に重なっている。青年の匂いなのか、女の残り香なのか、甘い香りが鼻を擽る。
そして先刻聞いたようなリップ音が目の前で響いて、唇が離れた。
「…………へ?」
二度目の間の抜けた声。一体、今何が起こった? 何で、青年と、俺が。
「口直し。ごちそーさん」
固まったままでいる俺を置いて、青年は心做しか嬉しそうに笑い、ひらりと手を振り宿の方面に歩いていく。
(いやいや、おっさんが口直しって)
「はぁ〜〜。俺様、やっちまったかね……」
相手は男だというのに、色気に当てられたかのように頬が熱い。はたはたと手で顔を扇ぎ、熱を払った。
俺も宿に帰ろうと思い立つも、向かう先には青年がいると思うと、どんな顔して会えばいいのかと折角払った熱がまた戻ってきて。
(もう! どうしてくれるのよ!)
心の中で叫んだ。
観念して渋々戻った宿で、レイヴンが全く寝付けなかったのは言うまでもない。
そしてそう遠くないうちに、青年の夜伽の相手が自分になるなんて、この時のレイヴンはまだ知りもしないのだ。
2022.1.31
「はじまりを告げる」収録作