師と月と

「アバン先生、今日は月が綺麗ですね」


 それはまだ、ポップがアバンと二人で旅をしていた頃の記憶。

「! ……ポップ。それは……」

 何気なく呟いた言葉に、先生から思いもよらない反応が返されて、ポップは戸惑ったのを覚えている。

「え? ……ってあれ? なんで笑ってるんですか?!」

「いやね……ふふ、そうですね。今後のために教えておいてあげましょう」

 忘れもしない、月の綺麗な晩の事だった。

「ポップ。月が綺麗、という言葉にはですね、実は…………────」




「ひゃ〜夜はちょいと冷えるな」

 我が身を抱き締めるようにして、両腕を摩りながら。ポップは月明かりを頼りに、不寝番をしている仲間のいる、野営地から少し離れた場所へと足を運ぶ。

 暗い夜道。ほんの少しの距離。

 木々を抜けた先の、周囲を見渡せる開けた場所。そこに────ヒュンケルはいた。

 視界に映るヒュンケルの後姿が、少しずつ大きくなっていく。

 丸太に腰を掛け空を見上げる背中は、それだけでも絵になりそうな程綺麗で逞しく……ポップは思わず見蕩れてしまった。

「ポップか。……どうした。眠れないのか」

 その隙に背を向けたまま声を掛けられて、呼ぼうとしていた名前は空回り、ポップの口の中で音にならずに消えていく。

「……まーな」

 言いながら並ぶ様に横に立ち、ポップはチラリと視界の端にヒュンケルを映す。

 鍛え抜かれた背中の美しさに負けず劣らず、相応しいまでに整った顔が、月明かりに照らされて輝いているのが見えた。

「見張り役、代わってやってもいいんだぜ?」

 色々考えていたら、どうにも眠れなくてここに来た。だからとも言えるし、ついでとも言える。

 ともあれ善意である事には代わりないポップの提案に、ヒュンケルの瞳が一瞬ポップを捉え、ふ、と笑う。

「遠慮しておこう」

「……っ!」

 ヒュンケルの口元が緩く描く曲線。

 あまりの色気に、思わずポップは息を呑んだ。

 そして自分の提案があっさりと────しかも、無駄に良い顔で斬り捨てられてしまった事に遅れて気付いて、ポップはいじけたように口を尖らせた。

「……ちぇ」

 未だに自分が、ヒュンケルにとって頼るべき相手にもなれていないという事実に、ポップは肩を竦める。

 鈍いこの男はきっとわからないであろうが、ポップはヒュンケルへと、特別な感情を抱いているのだ。

 そしてそれは、彼の隣に並べるようになってから告げようと、ポップは密かに心に決めていた。

 だがそうは言ったものの、ストイックかつ強靭な肉体を持つヒュンケルに、追いつくどころか差を埋められているのかも怪しく。

 時々、気持ちが溢れそうになるのを諌める練習も、同時に行わなくてはならなくなってしまったのが最近の事。

 そして今まさに、溢れそうになっているその気持ち。


 そんな折、空を……月を見上げるヒュンケルの横顔を目にして、ポップはふと思い出す。


 懐かしい、

 今は亡き、アバン先生の教えを────。


「なあ、ヒュンケル。…………今日は、月が綺麗だな」


 隣の男が見ているのと、同じ月を見上げて。

 ポップは、かつて先生に驚かれ、そしてその意味を教えられた……愛の意味が込められた言葉を口にした。

 

 月が綺麗────貴方を、愛しています。


 どうせ、疎いヒュンケルにはわかるまい。

 ただ、溢れる想いを消化させるための、所謂自己満足。そのつもりだった。

 ヒュンケルのことだ。きっと何も気付かず、「そうだな」なんて、キザに笑ってくれるんだろうと期待して、ポップは再びヒュンケルの顔を、瞳に…………


「…………え?」


 映し出されたヒュンケルの表情が予想していた物とは違って、ポップの喉からは間の抜けた声が漏れた。


 ポップはこの反応を知っていた。

 それはまるで、あの時の……


 先生の驚いた顔と同じで……────


「……ポップ……?」

「っな……なーんっつって! いや〜ちょっと言ってみたかっただけっつーか……」

 見開かれたヒュンケルの瞳から思い切り目を逸らし、慌てて誤魔化した。

 もしかして、通じたなんてことないよな?! いや、ヒュンケルに限って、そんなこと有り得ない。

 自問自答を繰り返すポップの心臓が、早鐘のように響き出す。

「お、俺もう戻るから! 邪魔して悪かったな」

「おい、ポップ」

「風邪引くなよな!」

 畳み掛けるように吐き出して、ポップはその場から振り返る事無く走り去る。

 振り返る事など出来るものか。

 今やポップの頬は、真っ赤に染まってしまっているのだから。

 ポップの地を蹴る音はすぐに消えて無くなり、草木を揺らす音と気配から、途中から飛翔呪文で飛んで行ったことがわかった。

 残されたヒュンケルの周りには、ポップが来るまでと同じ、夜の静寂が広がる。


「月が綺麗、か」

 先程まですぐ傍にいたポップの言葉に、ヒュンケルは聞き覚えがあった。

 かつて、師であるアバンが語った────当時は、くだらないとさえ思った話。

 それは今日のように、月の綺麗な晩の事だった。


「ヒュンケル、綺麗な月に隠された言葉を知っていますか?」


 思い出される、懐かしい記憶。

 役に立つことなどないと思っていたものだが、とヒュンケルは自嘲気味に笑う。

 知らなければ気付くことが出来なかった、ポップから自分に向けられた好意の言葉。

「あなたの教えのお陰で、気付く事ができました」

 師の偉大さを噛み締めながら。ヒュンケルはありがとうと心の中で礼を言い、アバンのしるしを手のひらに握り締める。


 そしてもう聞こえない、今や何処かを飛び回っているであろうポップに思いを馳せて、ヒュンケルは静かに空へ呟いた。


「ポップ。この月はお前と一緒に見るから、綺麗なんだ」








2022.12.14